僧舞③
僧舞をはじめその他韓国舞踊の全般的な印象は、遅くて何もしていないように見える、などあげられることが多い。これは今日の私たちの情緒とは違い、また社会状況も違うからである。現代はスピーディーで早くついていかないといけない競争が厳しいシステムと言え、また刺激的なものが欲せられる傾向である。なので、安らぎや内面の寂滅を求めていても、目まぐるしくまわる一般化されたシステムの中で、僧舞の情緒を受け入れるには難しい点がある。遅緩を嫌う傾向がある。
このような情緒から読み取れるのは、僧舞は相対的な感情の中にいるのではなく、常に絶対的な状態にいるということである。それは、外と内は常に開いていて調和を保っている、もしくは合致している状態である。
例えば、心が波立っている人は、この世界すべてが目的となる。一方、何もしてないように見える人は、目の前の‘これ‘しかない状態といえる。これは心の動きが遅く平和である表れと言える。
緊張した関係、孤立、といった‘二つ‘(私ー他、私-世界)ではなく、一つでありながら同時に二つ、二つでありながら同時に一つである、対象ー私の間で緊張しながら対立している関係が除去された感情である。それは、絶対的な感情であると言える。
雲と氷の瞬間
宇宙の星たちをまじまじと観察できた初めての体験であった。
セピア色の閑散とした公園に設置されたまま放置されたシンボルのような、空へ向け発射するのを待ち構えている小型ロケットを連想させる、そんな年季が入った巨大望遠鏡で木星を観察した。その望遠鏡の真横には勾配がかなり急で階段幅が狭い鉄の移動式大階段が設置してあった。鉄の階段特有の振動を響かせ5、6段上る。おのずと手すりを持つ手は無駄に力が込めらる。いつからか高いところが恐怖になっている自分に激励もどきのスイッチを入れ、その高い位置にあるレンズに顔を近づけ覗き込む。
いざ木星へと弾む心とは裏腹に、前かがみにレンズを覗き込む身体は階段から転げ落ちぬようにとバランスをとることを優先し、つま先から髪の毛の先まで覚醒された意識を巡らせる。なので見るために開いているはずの目の前は紗幕がかかったようにおぼろであった。小型ロケット型の天体望遠鏡に寄り添う自身のフォームに違和感がなくなるまで数秒の全身チューニング後、全身でゆっくりと焦点を合わせてみる。
木星だ。見える!こんなに大きな望遠鏡なのに木星はとても小さかった。木星の周りできらめく4つの衛星も見える。ガリレオが発見したとか。その日時の木星はストライプ模様をこちらに見せてくた。これは木星の早い自転により流される雲がいくすじもの横縞模様となって見えているという。また別方向には白い輪っかがかかっている土星も見ることができた。この輪っかは土星の周りを回る大小無数の氷のかけらの大群だそうだ。惑星に引き寄せられた雲と氷。雲はストライプに、氷は輪っかに変容されてその惑星そのものの模様として地球に見せてくれている。
地球から木星まで7億5000万km。土星まで15億km。光が進む距離は1分間に約18000万kmなので地球から木星までは40光分、土星までは80光分。すなわち私が今みている夜空の木星の輝きは40分前のものである。土星にいたっては80分前のものだ。惑星をデザインしているあの雲も氷の大群もそれぞれ40分、80分前の姿をこちらに見せてくれているという訳だ。
これは今この瞬間に同じ夜空の空間で異なる瞬間の光を私は見ているということだ。いうならば、違う瞬間ものが目の前で繰り広げられ、今同時に体験しているということになるのではないだろうか。
そこでふと思う。
踊る人とチュム、チュムと見る人、踊る人と見る人、踊られているその瞬間の同じ空間でそれぞれに違う瞬間のものを経験しているということがある。時間だけではなく、空間、踊る人、見る人それぞれに異なる世界が同時に体験される同じ瞬間が。その間隙からはみ出してきたスパークで感電したなら、全身を微弱に揺るがす振動の余韻にしばし酔える瞬間を味わえるかも知れない。また、遠い違和感の残骸たちが醸し出すほろ苦い後味の瞬間かも知れない。凝固された何かが自身を覆っている壁を傷つけながら出口を探して流れ出していくような違和感。これもまたはみ出てきた瞬間である。
同じ空間の異なる時間を見る今この瞬間。
だから肝心なのは、思う相手をいつでも腕の中に抱きしめていることだ。ぴたりと寄り添って、完全に同じ瞬間を一緒に生きていく事だと言った作家を思い出す。その作家の切なくも甘酸っぱい想いと、その言葉に出会った20代の自身のやり場のないほろ苦い記憶が今この瞬間、宇宙の光と重なる。
僧舞①
僧舞について
長い袖は鳥を象徴している。鳥(솟대)は空(天)と人を繋げてくれるシンボルとしてよく使われる。韓国では鳥を象徴する長い袖がチュム춤で多く表れる。宮廷舞踊など。
衣装は長衫:4角形:土を象徴
꼬깔帽子:3角形:人を象徴
太鼓:円:宇宙を象徴
これはチベットのマンダラ文様の影響を受けている。外側に円があり、その中に四角、そしてその中にピラミッドの三角。
マンダラは個人の生の領域すなわち小宇宙を表している。これは宇宙的領域すなわち自然の神秘を象徴的に表現したもので、人間は宇宙の秩序と調和の神秘の中で自身の真の姿を探すために、マンダラを通してこのような姿と本質を悟り生命と宇宙の関係を感得できる。さらにマンダラは神的領域を表し、これは内的な観照を投影し内面の経験を体験できる。
このようなマンダラの影響を受けている僧舞は、自己の内面に入っていく長い旅行を再現しながら最後には思考を感情を下ろし空ける。そして空になったときパーンと開ける法悦を太鼓で打ちながら解脱感を表した踊りである。
寂滅とした内面の世界へ、‘空‘の世界へと、そういうものを表している。
基本的に韓国舞踊は、自己の深い内面の中で外側と内側の平衡状態がとれ調和がとれている状態、つまり内面へ無限に入っていき意識が合致するという状態である。
言い換えれば、自己の内面へ無限大に入っていき体を中心に思考と感情が集中しているものを解消(全体へ拡散)できるもの、そして全体と私を一致させるそんな過程が韓国舞踊のコンセプトである。
一言でいうとチュム춤は、突入の世界として分かり易く形式化されたもの言える。
ずれたプレート
交差点でのこと。
町の南北を流れる片側2車線の車道、東西は1車線とも言い難い自転車が最適な幅の通り。といっても横断歩道と信号がしっかり見守っている。
遠くの山と空を見ていた。水に溶け混ざっていく絵具のような雲たちが信号待ちのひと時を楽しませてくれていた。車のヒーターをつける。そしてマグボトルに淹れてきたコーヒーを少し啜る。のどかな信号待ちだ。
そして信号が青になりアクセルを踏みだした時、角度的に少し前へ進まないと建物のでっぱりで視野がひろがらない左側前方から、白のスタイリッシュな自転車が私の車に吸い付きたいかのように猪突猛進してきた。今まで結構な年数を運転してきたが、幸いにもこのパターンは初めてである。
車の私も自転車の彼女もとっさの急ブレーキの反動で前へのめりこんだ身体が元のポジションへと押し戻された勢いのままフリーズしていた。この出会いがしらの一角の空間だけが凍っていた。ほんとドラマのようにそんな瞬間はスローモーションであった。この氷のような瞬間を割り裂きたく周りを見渡してみると歩行者、自転車、車たちは自分の行く道を淡々と行き交っていた。
上がったままの肩と息を下ろす。身体の力が抜けたら凍った時空間も溶け思考が取り戻された。頭を素早くペコペコ連続させ謝っている20代後半くらいの女性。
私「大丈夫ですか?けがないですか?」
自転車「すみません。信号みてませんでした。(笑)」
私「どこも当たってませんか?」
自転車「車と当たる前にとまりました!(笑)」
白でスタイリッシュな自転車は猪突猛進癖のご主人様をサドルにまたがらせたまま横断歩道の始まりの手前まで軽やかにバックしていった。いつものことでやれやれといった感じか。そのご主人様はとても笑顔である。なぜだ?元々笑い顔?緊張からか?いや泣いているのか??。。さておき、その笑顔にとても救われたのは事実だ。私はひとまず、とにかく安心した。
10-15秒ほどの出来事だったろうか。無事を確認したらそれぞれ行く道へ行き、事なきことを同乗者と安堵した。が、そこからおかしくなっていった。全身の毛穴が天に向いてぱっくり開いた。そして皮膚の表面を電流が走り全身をビリビリが覆っている。心臓が打ち出すリズムとボリュームが身体の外へ漏れている。大丈夫ではないのは私だった。
そして今関係あることないことをすごく話したようだ。しかも早口で。受けた衝撃を心身から一斉に排出するかのように。内から外へ押し出す声と呼吸が雪崩のように口を滑っていく。口から排出しているうちに電流による磁場は幾分か穏やかになり、漏れてた体内の爆音も治まったようだ。でも私のズレたプレートはなかなかハマることなく深く食い込み違和感が残ったままであった。
一度ズレたものは再びピタッとハマる場所が用意されているパズルとはいかない。何かがズレた深淵のその亀裂から飛び出してくる。ズレを定位置として循環していく感じだ。一足遅くやってきたショックな状態というより、一瞬という瞬間の存在について雷に打たれたようだった。
いうならば、手を上げて描く振りだから手を上げて踊るといよりも、上げた手の先から動き出したら踊っていて何かが描かれていたという感覚だろうか。
上げた手の先からどう繋がっていくのかは、わからない。その一瞬のみが知っているのだろう。上げた手の先からクルクル回るのか、斜めに横切るのか、何かをつかみに行くのか、はたまた空中で静かに佇んだままなのか。手を上げてみたらわかるだろう。その時間その場所のその瞬間の全てからだから、その一瞬が作り出される。唯一無二の一瞬。その連続。その完璧な一瞬という瞬間の中に存在している私。
きっかけはどうであれ、何かでずれたプレートの深淵から放出される一瞬の連続が織りなすものがチュムとなり、その電流に感電し磁場が狂った記憶の中で蘇るチュムにまた感電する。こんな一瞬があと何回経験できるのだろうか。亀裂からであれ、物理的であれ排出されるものをそよ風のようにふかせてあげたいと思う。
なにはともあれ、事故にならずよかった。ケガがなくてよかった。
月夜の踊り
先日の月食。
限りなく皆既月食に近い部分月食とあり日本では140年ぶりの現象だったとか。
通り過ぎる建物の間から見え隠れする月に視線を送ったまま機敏に頭を左右へ動かし月が欠け始める様子を見上げいた夕暮れ時の移動の中。そこから太陽ー地球ー月が直線に並んだ瞬間からまた各々の軌道でゆっくり流れていく時間を、ベストな角度でセッティングされた年季の入った天体望遠鏡とその場を提供してくれた地元の科学センターの屋上で過ごした。
山々に囲まれ冷え始めた家々からの灯りが見下ろせ、遠くには昔の栄華を話したそうにライトアップされたお城が寂しく浮かんでいた。この時間この場所の日常からしばし夜空の世界へいざなわれるために演出されたような夜景であった。
クレーターまでクリアーに確認できるレンズ越しのクローズアップの月と、レンズから目を離し肉眼で見上げると輪郭がにじむ遠くの月とを交互に見比べながら、太陽の光と地球の影に包まれながら超スローモーションで変貌していく月の瞬間を見届けた。
大きな空の小さな星、周る月、散りばめられた粒の輝きたち、見上げる宇宙のギフトに流れる記憶が繋がっていく。
古今東西、月にまつわる話が語り継がれているのは、日々変貌する姿で夜の空を特別なものにしてくれる月に刺激された人々の想像力が黙っちゃいなかったのだろうと想像に難くない。
呼び起こされるチュムの物語をたどってみる。月夜の祈り。捧げられる歌と踊り。手に手をとり心を合わせる人々。輪舞。カンガンスウォルレ。
満月の夜、女性たちが手をつなぎ歌いながら踊った輪舞、カンガンスウォルレ。月のようにまん丸な円を描きながら夜通し歌い踊る女性たち。満月の夜に夜通し踊り続けるとなると、その状態を想像してみるに、これはトランス状態を楽しむ女性のための輪舞だったのではないかなと思ったりもする。この輪舞の構造やトランス状態への突入など思うと盆踊りが連想される。カンガンスウォルレは右回りだが地元の盆踊りは左回りである。盆踊りは地域によって右回り・左回りがあるそうだ。ともあれ、カンガンスウォルレと盆踊りは似た構造の輪舞であると思った。そしてシンプルな振りと歌で誰でもすぐに踊れる気軽さと楽しさ、そして輪の一体感。カンガンスウォルレも盆踊りもまたそうである。
大きな違いは踊る人にある。盆踊りは老若男女が混じりあい踊っている。しかしカンガンスウォルレは女性のみが踊る。そしてカンガンスウォルレはみんなで手を握り輪を作り踊る。一方盆踊りは同じ振りを一人一人がそれぞれに踊りながら輪を進んでいく。同じ輪でも見るからに身体の距離感が違う。距離という美学的特徴が月夜の踊りにも顕著に表れていることにあらためてうなずかされる。
人々が輪になって進みながら踊り歌う輪舞。色んな国の色んな場面で踊られている輪舞。つながる人と人、結束される輪、広がる交流。言葉の前のこどもの遊びそのものだと思う。
農耕社会で満月は豊穣と生命力の充満を意味した。満月の夜に女性たちが丸い月をまね月を歌うカンガンスウォルレは、自然と人間が平和に共存することを願う儀式でもあった。踊る女性たちは周るほどに荒くなる息とともに緩んだ境界の彼方へと自身を解き放ち、その繋がれた手と手によって上昇する祈りへのシナジー効果を、夜空の月はその輪舞へ優しい波動を送り続けているかのようだ。
満月とカンガンスウォルレ。月夜の最高の瞬間であったろうと思う。人と自然との融合の瞬間である。
そんな呼び起こされたチュムの記憶に心を躍らせながら、それでも冷たい夜風が身にしみる科学センター屋上で見上げた月食であった。
散歩した背骨
目が現れた。矢印も現れた。その続きは三枚おろしにされた中骨だけの魚の胴体が続いてくるかのようだ。
体の構成物諸々をそぎ落とし胴体を貫通している長い骨だけになると、きっと気持ちいいだろうなと思う。誰かの食事のためのお皿の上の骨ではなく、風に吹かれるまま揺れ動くそんな体の中の長い骨。
散歩の途中、年輪を重ねたイチョウの木々がざわめく公園の隅にカラフルな遊具に押し出され存在感なく佇んでいる鉄棒にぶら下がってみた。鉄棒を握りながらほんの少しジャンプをして腕をピンと伸ばすと足元ブラブラ、空から見下ろすイチョウの葉っぱに少しだけ近くなる風景に、置いてけぼりだったの童心がむくっのぞかせる。
ちょっと怖かったがのぞかせた童心にまかせそのまま前へ上半身を下げると鉄棒を支点に上半身と下半身を折り曲がる。砂埃が舞う地面へと風景は一変する。ちょうど骨盤に鉄棒が食い込みとまっている。そのまま脱力してみる。全身ダラーン。腕も地面へダラーン。骨盤に食い込んだ鉄棒が私の全体重を痛みとともに認識させてくれる。一気に頭へ上った血で顔面は熱い。焦りだした心拍を落ち着かせそのままの状態で意識を頭から体へ向けてみる。どこからか微音が聞こえる。体の中からだ。背骨だ。背骨にぴったり貼りついていたものが重力で地面へと引っぱられ剝がれていく音だ。
息を吐けば吐くほど柳の枝が揺れるようにじわじわとその範囲を広げていく微音たち。耳を澄ましてみる。体の中を響かせている。一枚一枚何かが剥がれていく。
イチョウの葉っぱがひらひら舞い落ちる背骨と散歩のひと時。
散歩したのは背骨も知れない。