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カケチュム 「○○×(かける)チュム춤」 管理人Narimorがチュムと日常の出来事を掛け合わせて綴るブログです。 kakeChum. 「○○ × (multiplied by) Chum(dance)」. This is a blog written by the concierge Narimor by multiplying Chum and daily life.

クラゲと柳と韓国舞踊

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赤クラゲは、見飽きることがない。糸のような細い無数の赤い長い脚が、絡まり合いながら水中を揺らいでいる。自力そのものがそもそも存在しないかのように、ただ流れに身を任せ、あっちにこっちにゆっくり漂っている。複雑に絡まった赤い糸のような長い脚たちは、これといった技なしに、するりとほどけたり、はたまた、どうしようもなく結ばれ絡まりあったりしながら、見たこともない不思議な模様を水槽に描きだし、神秘に満ちた深海であるかのような錯覚を起こさせる。

水槽に結構な時間をへばりついて見入っていると、赤クラゲの丸い頭の部分は時折ポンプの運動をしているようである。ぷよぷよの丸い頭の部分をゆるく萎ませいる。そしてその萎ませた頭を元のぷよぷよの丸い頭へとゆるく膨らます反動で、ほんの少しだが、漂っていた水流を逸脱する線を描きながら移動してるように見える。

それに、赤クラゲには内側と外側の境界がないようだ。表も裏もなく全体が襞で包まれているようである。その襞たちは拍子抜けするほどふわふわしている。ずっと見入っていると、こちらが自ずと脱力していくのが分かる。寒さをしのぐ厚い上着から始まり、一枚一枚を着ている服を抜いでいき、身体が解放されていくような軽さである。交感神経が徐々にオフへと導かれ、そして何だか温かくなってくる。どうも赤クラゲは見る者に、脱力から温もりの波紋を起こすようである。

そこでふと思う。

この赤クラゲは、韓国舞踊と通じるものがあると。

韓国舞踊を見ていると、その動きはとてもしなやかである。意図的な振付などは別にして、韓国舞踊ではある動作、ポーズを“して見せる”というような振りはない。いわゆる“決めポーズ”なるものはない。それは本来、韓国のリズム(長短:チャンダン)を基盤に韓国舞踊の動作が成り立っているので、そのリズムによる動作の強弱があるにせよ、呼吸が通る道、気が通る道が動作そのものとなる韓国舞踊は、すべての動作が“最中(途中)の動作”の連続と言える。最中の動作の連続であるから、一時停止状態で`決めポーズ`があるバレエやその他のダンスのように、目を引くような動作やポーズでカメラに納まることもほぼない。いうならば、“解けない動作”のまま被写されている。

この世に身体が存続している間中、途切れることなく続けてられている呼吸は、常にその最中であり、その最中の連続の流れの中で、リズムが起き、動きが沸き、それが踊りへと導かれる。それは、たどり着くであろうどこかへの旅の途中といえる。しかしその旅は、スケジューリングされた予定調和なるものではない。風が吹くまま、目的を持たぬ旅であるかのようだ。そういう要素が韓国舞踊には強いと言える。

深い長い呼吸(丹田呼吸)を基盤とした動作なので、その動きは極度な角や緊張がなく、しなやかな印象を受ける。それは丹田呼吸そのものが角や緊張がなく、深くて長い呼吸=しなやかであるからである。イメージとしては風に揺らぎ続ける柳のようである。柳の動きが止まるということはない。目に明確に見えなくても空気がある限り柳は揺らぎ続いている。

赤クラゲもそうだが、柳も見入っていると、韓国舞踊の動きを連想させられる。それは、自然の中で、自然と共に織りなす動きであるからではないだろうか。韓国舞踊は、風のように、水のように、掴むことができない。だから、強風であれ、微風であれ、または、激流であれ、暖流であれ、そこには流れがあるのみで、止まって決める瞬間はないのである。故に、動作すべてが“最中(途中)の動作”の連続として、流れとして表れると言えるだろう。

さらに、見るものを何だか温かくさせる赤クラゲ、そして韓国舞踊、そこからさらに連想が繋がる柳には、何か共通するものがあるのではないか。見るものに温もりを感じさせるなにか。

想像してみるに、温もりを感じている時とは、心身はともに緩んでいる状態であると思う。緊張がゆるみ、塞き止められていたものが流れだし、穏やかな呼吸が自身を取り囲んでいる状態。そう、弛緩である。

緊張がほぐされると自然と筋肉は緩み、心身の力みが解けていくのが分かる。どこよりも分かり易い顔面の筋肉は、ゆるむと同時に目じりは下がり、口元もゆるみ、少しばかり笑みが見える表情になる。弛緩は、緊張を温もりへと変換させてくれるスイッチなのだと思う。

ということで、赤クラゲから始まり、柳、韓国舞踊への連想の着地は、“赤クラゲ、柳、韓国舞踊は見入っていると、鏡のように見る者自身も緩みだす”ということのようだ。

お仕舞いに、「赤クラゲ、柳とかけて韓国舞踊と解く」その心は「弛緩の達人でしょう」。