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kakeChum

カケチュム 「○○×(かける)チュム춤」 管理人Narimorがチュムと日常の出来事を掛け合わせて綴るブログです。 kakeChum. 「○○ × (multiplied by) Chum(dance)」. This is a blog written by the concierge Narimor by multiplying Chum and daily life.

床の住人

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床一面うっすらかぶさったほこり。滑らすクイックルワイパーに押し出され舞い上がる。押し出す右足、支えに戻る左足。ブランコの呼吸いったりきたり。差し込む光が描くキャンバス。陣地へと招かれる。宙に散る粉雪 光の中で舞っている。

そこでふと思う。

クイックルワイパーを押し出すのは意外と易い。吐く呼吸のリズムに合わせ前へ押し出す。前へ滑り出す右足、加わる力を支える右ひざ、足裏から関節を伝って上昇し揺れる骨盤。その波に連動し伸びていく手からクイックルワイパーが前方へと華麗なスケーティングをする。ここまでの一連の押し出す動作の結果、その幅1枚分のほこりが宙に舞い床は見る見るキレイになっていく。押し出す動作はやっているうちに何だか積極的になってきたりする。そして何だか気持ち良くもなってきたりもする。

一方、前へ押し出したクイックルワイパーを引き戻すの動作はというと、押し出す動作よりも消極的になる、というか、あまり動作として関心がもたれていないように思える。前方へ押し出された身体を元の位置へ引き戻すということは、引っ張る力が重要である。引っ張る力は吐いて進んだ呼吸の1.5倍~2倍くらいの吸う呼吸がいるのではないかなと思う。なので、引き戻す動作は意識的にすることを強いられることになっていまう。滑り出したラインをそのまま引き返す動作では、床が見る見るキレイになっていく!という充実感もさほど得られず、吸う呼吸を意識的にしなければ!となれば、気持ち良くもならなだろう。

右足で滑り出した重心を、その後方にてゼロ状態で浮いている左足に戻す身体の動きは、ブランコのように前後同幅で揺れ動く感じだ。振り子である。けれども実際のクイックルワイパーの掃除動作では、随分と左足(後方の足)はないがしろにされ、右足の揺れに合わせて存在感なく支えてくれているのが分かる。

前を向いたままで後ろへ引き戻す動作は、全てを前に向けて進み出す時に感じ取れる力強さ、爽快さとは違う何というか、ジャンプ前の深いしゃがみ込み、光を見ることはないが必ずそこに居てくれる縁の下の力持ちのような存在であるように思う。それ如何により次の押し出し具合のありさまを左右する鍵のようだなと思う。

クイックルワイパー。

床の掃除中に君のことをこんなに感じて考えた日はなかったように思う。君のおかげで宙に舞えたほこりが光の中で喜んでいるように見える。今日もありがとう。

 

 

 

 

 

 

Stand Up Paddleboard

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SUP



SUP三昧だったこの夏。週末毎に海へ車を飛ばした。正確には快晴だった10月中旬まで続いた。

といってもSUP初心者である。

といっても穏やかだった海面がうねりだし突然大波を寄せてくる気分屋の海は見ているだけで楽しめる方で、いまだにその中で戯れるのは心の中では正直怖い感情の方が勝っている。

SUPの持ち主である友人の適当なご指導に忠実な私はSUPボードに立ち上がりパドルを大きく左右2回ずつ漕ぎ進め、適当に友人のご指導を体現してみせる。そして漕ぎ進んだSUPを海流が強くなる手前の適当なポイントでターンさせまた穏やかな海流の方へと漕ぎ進める。不安定ながらいい感じでは?太陽を遮る雲も、波を起こす風もない奇跡的な瞬間の空の下、光が眩しいほど反射する海面に浮かぶSUPが悠々と進む光景を俯瞰してみる。と、その途端、どっかからの風に押し出された波が私をSUPごとひっくり返し、海中でもがき慌わてふためくこと数回。そのたびに光景を俯瞰するほど余裕はなかったのだと苦笑いをする。ひたすら海面とSUPのベストな関係を探りながら膝をブルブル震わしパドルを漕ぐド素人の私には、どうやら不安定感と恐怖心をおさえることで精いっぱいであったようだ。

同じく友人の適当なご指導を受けた子供は初めての体験に戸惑っていたのも束の間、なんたることでしょう、見事なパドルさばきで輝く海面をスイスイと漕ぎ進んでいく。その姿は全く違和感がない。いや、初心者なのにスイスイと漕ぎ進んでいく子供に違和感を感じたと言うべきか。

そこでふと思う。

合致しているのだ。

海面とSUPボードとパドル、漕ぎ進んでいく子供。まるで昔からそうであったかのように。なんだこの光景は。初心者というカテゴリーが意味を失いさまよっている。

子供はすべてが合致していた。体も心も呼吸も。違和感がない。それを完璧と言うのだろう。そもそも不安定感を払拭すべく海面とSUPのベストな関係を探りつつバランスを取ろうとする私とは、始まりからすべてが違う。子供はSUPボードとパドルと一体だったのである。そして形定まらない海と風の気まぐれで柔らかな感触を感じながらそのまま受け入れたのである。

子供は自-他が分離していないのだろう。そして自分-自身も分離していないのだろう。すべてが一つ、自身が一つ世界で合致してるのだろう。

SUP三昧だったこの夏。

子供の合致が続きますようにと海に願った。

そして合致したときに見る者との間で生まれるスパークをチュムで見たことを思い出す。チュムこそ合致の極みでなのだろう。

NOMADLAND

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映画「ノマドランド」の一場面


映画を見え終えた数日後の今も静かなさざ波の中で揺られているような余韻が続く。

ノマドといえばジル・ドゥレーズを連想する。定住や固定とは反対の移動することにより境界を越え、流動する中で生まれる運動、それは枠組みの外からやってくる、それを脱領土化と。

映画は現代のノマドたちのお話であった。

フランシス・マクドーマンド演じるファーンが町や大自然の中を歩く姿、そしてその大自然の中をともに移動を続けるヴァンガードから放たれるとてつもない孤独感、一層深まる絶望感に、アメリカ西部の壮大な風景の映像美に癒されつつも、私のやり場のない呼吸は手を固く握らせていた。

ファーンが大事にしている思い出のお皿が割れてしまう。正確には好意をもってくれる仲間の不注意により割れてしまう。思い出のお皿が割れくだける音は、ファーンの内側へ外の空気が流れ込む兆候のようであったと思う。そしてその割れた断面を丁寧に接着していくファーンは楽しんでいるようにも見えた。それは枠組みの外からやってきた流れにより、抱えた心の痛みを人とのつながりの中で癒ていくファーンの、そしてノマドたちの姿を集約したメタファーにも見えた。

思い出の場所から移動し続け大地の端、海にきたファーンは吹き荒れる風を全身で思いっきり受け貫通させ感じているようであった。ヴァンガードでは行けない海からの風で思いっきり体内を換気させているようでもあった。引きずり過ぎた思い出をここで下ろし思い出は思い出すものになり、そしてまた旅を続けていくんだろう。ファーンは孤独や絶望の中でも自分から逃げない、とても勇敢で正直な人間だと思った。そして生活の中のささやかなことに楽しみを見出すチャーミングな人だと思った。

映画は終始大自然の映像が圧巻であるが、広い空の下、砂漠の中の巨大な岩々の中、風が吹き荒れる海岸、そこに独り立つファーンの孤独感はさらに際立つ。胸が締め付けられそうだ。大自然の中では孤独、不安、畏怖が先に来る私にこのシーンたちは正直怖い。しかしこれは、あなたは独りじゃない、大きな何かの一部なのだという励ましと希望を伝えたかったクロエ・ジャオ監督のメッセージだったと知った。どこまでもスケールが大きい。

ファーンがノマド仲間たちと酒場でダンスを楽しむシーン。音楽とダンスがあればどんな過酷な状況であっても人の心は躍りチャーミングな表情となる。そして手に手を取り踊り始める。ファーンもノマド仲間に誘われて踊り始める。そしてすごく楽しんでいる。みんな思いのまま楽しんでいる。心温まる穏やかなシーンだ。

音楽とダンス。

音楽に身をゆだね身体は自ずとリズムをとりはじめる。そして揺れてみる。ファーンは気心知れた仲間と一緒に踊り、そして楽しい場が生成される。

そこでふと思う。

ファーンのように仲間がいて繋がっている場での音楽とダンスが楽しくないはずがないだろうな、と。最高の場だろうな、と。

けれども、気心が知れてなくても、仲間じゃなくても、人と繋がっていなくても、コミュニケーション能力がなくても、そこに音がありそれに身体をゆだねることができるのなら、そこで生まれる場により人は先に繋がれるんだ、って。どんな言葉も介さないで人を知り感じれる。先に身体の感覚から入るコミュニケーションによって繋がれる関係を構築できる。ちょっと特別なつながりでもあるかな、と。あ、子供はみんなそうか。みんな通ってきた繋がりだったか。子供はまさに音楽とダンスであった。