僧舞③
僧舞をはじめその他韓国舞踊の全般的な印象は、遅くて何もしていないように見える、などあげられることが多い。これは今日の私たちの情緒とは違い、また社会状況も違うからである。現代はスピーディーで早くついていかないといけない競争が厳しいシステムと言え、また刺激的なものが欲せられる傾向である。なので、安らぎや内面の寂滅を求めていても、目まぐるしくまわる一般化されたシステムの中で、僧舞の情緒を受け入れるには難しい点がある。遅緩を嫌う傾向がある。
このような情緒から読み取れるのは、僧舞は相対的な感情の中にいるのではなく、常に絶対的な状態にいるということである。それは、外と内は常に開いていて調和を保っている、もしくは合致している状態である。
例えば、心が波立っている人は、この世界すべてが目的となる。一方、何もしてないように見える人は、目の前の‘これ‘しかない状態といえる。これは心の動きが遅く平和である表れと言える。
緊張した関係、孤立、といった‘二つ‘(私ー他、私-世界)ではなく、一つでありながら同時に二つ、二つでありながら同時に一つである、対象ー私の間で緊張しながら対立している関係が除去された感情である。それは、絶対的な感情であると言える。