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kakeChum

カケチュム 「○○×(かける)チュム춤」 管理人Narimorがチュムと日常の出来事を掛け合わせて綴るブログです。 kakeChum. 「○○ × (multiplied by) Chum(dance)」. This is a blog written by the concierge Narimor by multiplying Chum and daily life.

背中の手

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この時世の中、体調不良や風邪と言えば何かと紛らわしく面倒であるが、ここのところ寝込んでいた。寝込むのに飽きて、途中、もう大丈夫かなと、起き上がってみるのだが、身体が寝込みたがった。いま思えば、強制休息の合図をくれてるようであった。昼間はだいぶ寒さはましになったが、朝晩の冷え込みの寒暖差のせいか、そして知人、親戚と突然の葬儀が続いたのもあってか、少し疲れていたのかも知れない。

刻一刻と移り行く日常と分かってはいるけれど、いざ目の当たりにして、どうしようもない高波にのまれていたようだ。溺れぬようにと、もがき続けた非日常が終わると、心身の激しい消耗を道連れに嵐は静かに去っていた。日常だか非日常だか、どちらの世界にいるのか分からなくなった。どちらが本当に世界なのかわけが分からなくなっていた。

ベッドに横になると自動的に瞼は閉じられた。吐息から、こわばった頸椎周りを一気に弛緩させた。続いて頸椎から下へと下りていき、背骨全体をストローのようにびゅんびゅん風通しのよい筒の状態へと、吐息を原動力にイメージを連動させてみる。すると、もう身体はどこにも力が入らない。抜け殻のようだ。ふと、自分の身体はただの器のようだなと思う。

そんな状態の器の中では、込み入った筋肉運動をしている心臓が、鮮明に浮かび出る。鈍い違和感を覚える。なんだか重い。体調不良のせいか、通り道でひっかかっているようだ。ここだけがやけにクローズアップされ点滅している。

鼓動は身体中を響かせ、鼓膜を振動させ、そして終着する。器の中の振動を、器の中で反響させ、器の中が受容する。寝込んでいても、器の中はとても忙しいようだ。動き続ける器の中にも休息をぜひにと思う。あ、それは身体機能が止まることか。

ふと、背中に温もりを感じた。小さな手があった。さすってくれている。思わず私の背中は、長らく忘れていた安堵感に包まれた。干ばつで地割れした水田に、雨が降り注ぐように。

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背中を不意にさすられた感触は、自身で再現することができない触覚の違和感というか、新鮮感というか、ともかく一瞬驚いたが、すぐにそれは、小さな手の温もりからの安心感、安らぎへと変容されていった。春の陽を受け、うっすらと表面が溶けていく雪山のように、忘れられた山肌が凍った白一面の中から表れ、いつしかすっかり山の景色を変えてしまった太陽の光のようだ。温かかった。さらに、さすられたおかげで、私の背中は私に感じ受け取られたのというか、私に感知されたというのか、ともあれ、とても新鮮な感覚であった。

そういえば、先日の胃内視鏡検査でも似たような感覚であった。検査室で横になると、目の前にはテプラで居場所を指定された無機質な器具たち、生理食塩水、ガーゼ、消毒液、ホルマリン液、チューブ、医療用手袋の箱、ステンレス台などが、無駄なく静かに配置されていた。それが余計に神経を覚醒させたのかも知れない。検査中、私のオエっは増す一方でとても辛かった。そして、見かねた看護師さんが、私の背中をさすってくれた。

それは、自分でもびっくりするほど、安心しだしたのを覚えている。看護師さんの手の触感に癒された。そして、次第に嬉しい気持ちが沸いてきた。そして、穏やかな気持ちになった。なによりも、ありがとうの気持ちになっていた。そのおかげで、オエっの辛さもだいぶ和らいでいた。温かい手であった。

むかし飼っていた犬たちにも似たようなことがあった。その子らはいつも誰かに撫でてもらうことを欲した。前足と鼻でツンツンとこちらの手にまとわりつき、撫でるようにと催促のような誘導をしてきた。そして、こちらが両手で頭から全身を撫で撫でしてあげると、幸せそうに目を細め、安心しきった表情を見せてくれた。撫で撫での感触を満喫している様子であった。そしてそれは、犬の温もりを手のひらから感じているこちらも、同じであった。自然とほころぶ表情、日向ぼっこをしている背中のように、撫で撫でしているといつの間にか心身共に弛緩している自分がいた。温かい癒しに包まれていた。

思うに、お肌が触れて感じるこの触覚は、相手を直に感じとれる感覚である。自分と相手との間に、フィルターがかからない。そういう意味で、他の感覚よりも原始的だなと思う。そして、聞く、見る、匂う、という感覚よりも、より能動的であると思う。味わう感覚もかなり能動的とは思うが、それは嗅覚と密接に絡まり作用しており、また文化的背景に左右される部分が大きいかなと思う。そういう意味でも、触れるという感覚は、古今東西、老若男女において共通感覚ではないかと思う。それは、人がこの世に生まれて世界を感知するために、他のどの感覚よりも切実に必要な感覚だったからではないだろうか。

実際、触れるとは、とても「距離」が近い。触れるとは、自身を覆っている皮膚の延長線上に相手(対象)が在る、繋がっていることになる。だから、触れることは、相手をダイレクトに感知できることと思う。このダイレクトに感知できる距離は、つまり、自分と相手との関係を表すことでもある。それはまた、自分が相手(対象)に触れながらに、逆に、自分自身を感知することにもなる。ということは、触覚とは、五感の他の感覚のように一方通行の感覚ではなく、触れる側、触られる側、相互作用しながら変化し感じ取れる感覚だなと思う。うむ、深い、触覚。

そして、触れる側、触られる側には、何かしら熱の伝達が発生する。所謂「ふれあい」である。そこには違和感のみが残るかも知れない。あるいは、熱が激しくてショートし一瞬でスパークするかも知れない。しかし、熱が穏やかに響き合う心地よいふれあいを、人はそれを「温もりを感じる」と言うのだと、あらためて思う。

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体調不良や風邪と言えば何かと紛らわしく面倒なご時世に加え、連日ウクライナの悲惨な映像に触れ、心が参っていくのが感じる。こわばった背中に触れる。ここにはもう温もりを感じられるふれあいは、残されていないのだろうか。祈りに近い希望を持ち続けたい。