NOMADLAND
映画を見え終えた数日後の今も静かなさざ波の中で揺られているような余韻が続く。
ノマドといえばジル・ドゥレーズを連想する。定住や固定とは反対の移動することにより境界を越え、流動する中で生まれる運動、それは枠組みの外からやってくる、それを脱領土化と。
映画は現代のノマドたちのお話であった。
フランシス・マクドーマンド演じるファーンが町や大自然の中を歩く姿、そしてその大自然の中をともに移動を続けるヴァンガードから放たれるとてつもない孤独感、一層深まる絶望感に、アメリカ西部の壮大な風景の映像美に癒されつつも、私のやり場のない呼吸は手を固く握らせていた。
ファーンが大事にしている思い出のお皿が割れてしまう。正確には好意をもってくれる仲間の不注意により割れてしまう。思い出のお皿が割れくだける音は、ファーンの内側へ外の空気が流れ込む兆候のようであったと思う。そしてその割れた断面を丁寧に接着していくファーンは楽しんでいるようにも見えた。それは枠組みの外からやってきた流れにより、抱えた心の痛みを人とのつながりの中で癒ていくファーンの、そしてノマドたちの姿を集約したメタファーにも見えた。
思い出の場所から移動し続け大地の端、海にきたファーンは吹き荒れる風を全身で思いっきり受け貫通させ感じているようであった。ヴァンガードでは行けない海からの風で思いっきり体内を換気させているようでもあった。引きずり過ぎた思い出をここで下ろし思い出は思い出すものになり、そしてまた旅を続けていくんだろう。ファーンは孤独や絶望の中でも自分から逃げない、とても勇敢で正直な人間だと思った。そして生活の中のささやかなことに楽しみを見出すチャーミングな人だと思った。
映画は終始大自然の映像が圧巻であるが、広い空の下、砂漠の中の巨大な岩々の中、風が吹き荒れる海岸、そこに独り立つファーンの孤独感はさらに際立つ。胸が締め付けられそうだ。大自然の中では孤独、不安、畏怖が先に来る私にこのシーンたちは正直怖い。しかしこれは、あなたは独りじゃない、大きな何かの一部なのだという励ましと希望を伝えたかったクロエ・ジャオ監督のメッセージだったと知った。どこまでもスケールが大きい。
ファーンがノマド仲間たちと酒場でダンスを楽しむシーン。音楽とダンスがあればどんな過酷な状況であっても人の心は躍りチャーミングな表情となる。そして手に手を取り踊り始める。ファーンもノマド仲間に誘われて踊り始める。そしてすごく楽しんでいる。みんな思いのまま楽しんでいる。心温まる穏やかなシーンだ。
音楽とダンス。
音楽に身をゆだね身体は自ずとリズムをとりはじめる。そして揺れてみる。ファーンは気心知れた仲間と一緒に踊り、そして楽しい場が生成される。
そこでふと思う。
ファーンのように仲間がいて繋がっている場での音楽とダンスが楽しくないはずがないだろうな、と。最高の場だろうな、と。
けれども、気心が知れてなくても、仲間じゃなくても、人と繋がっていなくても、コミュニケーション能力がなくても、そこに音がありそれに身体をゆだねることができるのなら、そこで生まれる場により人は先に繋がれるんだ、って。どんな言葉も介さないで人を知り感じれる。先に身体の感覚から入るコミュニケーションによって繋がれる関係を構築できる。ちょっと特別なつながりでもあるかな、と。あ、子供はみんなそうか。みんな通ってきた繋がりだったか。子供はまさに音楽とダンスであった。