Stand Up Paddleboard
SUP三昧だったこの夏。週末毎に海へ車を飛ばした。正確には快晴だった10月中旬まで続いた。
といってもSUP初心者である。
といっても穏やかだった海面がうねりだし突然大波を寄せてくる気分屋の海は見ているだけで楽しめる方で、いまだにその中で戯れるのは心の中では正直怖い感情の方が勝っている。
SUPの持ち主である友人の適当なご指導に忠実な私はSUPボードに立ち上がりパドルを大きく左右2回ずつ漕ぎ進め、適当に友人のご指導を体現してみせる。そして漕ぎ進んだSUPを海流が強くなる手前の適当なポイントでターンさせまた穏やかな海流の方へと漕ぎ進める。不安定ながらいい感じでは?太陽を遮る雲も、波を起こす風もない奇跡的な瞬間の空の下、光が眩しいほど反射する海面に浮かぶSUPが悠々と進む光景を俯瞰してみる。と、その途端、どっかからの風に押し出された波が私をSUPごとひっくり返し、海中でもがき慌わてふためくこと数回。そのたびに光景を俯瞰するほど余裕はなかったのだと苦笑いをする。ひたすら海面とSUPのベストな関係を探りながら膝をブルブル震わしパドルを漕ぐド素人の私には、どうやら不安定感と恐怖心をおさえることで精いっぱいであったようだ。
同じく友人の適当なご指導を受けた子供は初めての体験に戸惑っていたのも束の間、なんたることでしょう、見事なパドルさばきで輝く海面をスイスイと漕ぎ進んでいく。その姿は全く違和感がない。いや、初心者なのにスイスイと漕ぎ進んでいく子供に違和感を感じたと言うべきか。
そこでふと思う。
合致しているのだ。
海面とSUPボードとパドル、漕ぎ進んでいく子供。まるで昔からそうであったかのように。なんだこの光景は。初心者というカテゴリーが意味を失いさまよっている。
子供はすべてが合致していた。体も心も呼吸も。違和感がない。それを完璧と言うのだろう。そもそも不安定感を払拭すべく海面とSUPのベストな関係を探りつつバランスを取ろうとする私とは、始まりからすべてが違う。子供はSUPボードとパドルと一体だったのである。そして形定まらない海と風の気まぐれで柔らかな感触を感じながらそのまま受け入れたのである。
子供は自-他が分離していないのだろう。そして自分-自身も分離していないのだろう。すべてが一つ、自身が一つ世界で合致してるのだろう。
SUP三昧だったこの夏。
子供の合致が続きますようにと海に願った。
そして合致したときに見る者との間で生まれるスパークをチュムで見たことを思い出す。チュムこそ合致の極みでなのだろう。